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Posted by 滋賀咲くブログ at

2019年08月04日

地方

 さて、地方人の最大の欠点は「お国自慢」にあると思います。そんなものは聞きたくもないのよ。映画「壬生義士伝」みたいに殺意を惹起することさえあると思う。私んとこはあまり自慢できるものもないので、語ることは少ない。語ったところで、ほかの地方人にわかるわけはないし。かように、ほかの土地の事情にまったく無知であるということが、地方人の地方人たるゆえなんですよ。無知であるがゆえに、自分が親しんでいる風習がよそでも通用すると誤解するんですよね。それは誤解です。「お国自慢」に過ぎない。まあ、私も地方人なので、この陥穽から逃れることはできんのです。でも、この頃、地方初のPRビデオというのが増えてきたな。私んとこでも去年「餃子映画」をつくったがゆえに、人さまのことは言えないんだけどさ。でもね、映画でもビデオでも、この手のメディアに共通する思想がありますね。「青い鳥シンドローム」とでも言えばいいのか。つまり、わざわざ都会に行かなくても、地元に価値あるものがあるじゃないか…という考え方です。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。でも、私はストレートに「田舎は田舎じゃないか」と思いますよ。私自身、価値あるものはおろか、何にもないド田舎の出身ですからね。現実問題、地方はいずれ社会が維持できなくなることは自明の理ですが、所詮、私の知ったこっちゃないけどね。

 何となれば、北陸地方の某市がつくったPRビデオをユーチューブで見たのです。どことは特定しません。同市の名誉にかかわるからね(笑)。でも、私はこの土地がそれほどいいところだとは思わなかった。そもそも、そういうPRビデオをこしらえることが、すでにジリ貧状態ではないかと感じたのですね。若い者がいなくなって、年寄りばっかりになる…そのこと自体はもう止めることはできない。場合によっては、地域社会は維持できなくなる。厚労省、及び総務省は何かのプランを持っているかというと、そんなものは何にもないと思う。所詮、自分の死んだ後のことなんか知ったこっちゃねーや、というところではないかな。ああ、ところで…私が見たPRビデオについて、URLだけ以下(↓)にご提示いたします。どこの自治体と明言するのは危険ですからね。でも、このミュージカル調というのはいかがなものだろう。突然、歌を歌い出すので驚くのですね。

https://www.youtube.com/watch?v=ox6HVbiEq04
  


Posted by 館長 at 06:15Comments(1)

2019年07月27日

自己表現について

 今回ちょっと他言をはばかるネタを呈します。常々思っていたのだけど、自己顕示欲が根底にある職業というものがありますね。俳優とかアナウンサーとかモデルとか。まあ、いいんですよ。とはいえ、己の肉体をさらすヌードモデルというものは別格だと思うのですね。実際、本当に「美の人柱」となろうと考えているのか。実は、自分の身体を人に見せたいだけではないのかと思いますが…というようなことを、とある男性モデルのブログでぶちかましたことがあったのですね。確か十年くらい前のことかな。もちろん、相手は怒りました。じゃ、私の説をくつがえす論があるのだろうか。ないんですね。実際、男のモデルっているんです。生業として成り立つほどのことではないと思いますが。まあ、微々たる需要ではあるけど、やはり必要らしい。男にとって裸であるか裸でないか、というのは、モノを見せるか見せないかということに局限化します。それを見せる見せないかという覚悟の問題になります。私はそういう覚悟はないですね(笑)。というより、私の身体はもはや美を体現していないという現実がありますけどね。

 女性モデルは一定の需要があるので、美を体現していると世間的に認知されているのでしょう。でも、男の肉体もそうなのであろうか。例えば、ミケランジェロの「ダヴィデ」ですね。美術番組でも全身像は出しても、部分像でナニは映さないと思う。それは男のナニは美を体現していない、という暗黙のメッセージではなかろうか。私もやはりそう思います。先にも申し上げたように、男性モデルというものも少数ながらいるようですが、どういう動機でやってんのかなと正直思いますね。まあ、精神性を肉体で表現する、などといううがったことをほざいているブログがあるけど、まるっきり信じられませんね。ただ単に見せたいだけじゃねーの、と思うのですね。悪いけどね。しかし、それは私の偏見であって、肉体は精神性の反映なのだろうか。うーん、でも、私も含めて市井にそういう人はほとんどいないと思います。要するに、「ぼーっと生きてきた成れの果て」という人ばっかりな気がする。はばかりながら、私は戯作などに手を染めている者ですが、それは表現だと思います。でも、ナニを見せることが表現と言えるのかわからない。もちろん、そういう生き方を否定はしません。流されずに自分らしく生きているという点でね。でも、何が自分らしくなのだろうか。私自身、人の都合に左右される半生をおくってきました。「こうしたい」と心中で思っていてもできなかったのですね。実につまらない話をしました。お読み捨てありたく。  


Posted by 館長 at 00:22Comments(0)

2019年07月22日

戦い終わって

 さて、参議院選挙は無残な結果に終わったらしい。いや、誰が勝った誰が負けた…そんなことはどうでもいいのよ。総務省の口車に乗せられてのこのこ投票に行ったバカどもが真の敗者なのです。もちろん、私は行っていないよ。銃を突きつけられて脅されない限り絶対に選挙なんて行かないね。所詮あんなものは「民主主義の茶番」ですよ。いや、「民主主義の書割」という表現もある。私は学生時分しか選挙には行ってないな。が、勤め人となったら、日曜日の一部を政治のために犠牲にする気などなくなった。「あなたの一票が世の中を変わる」…事実であると同時にそれは虚偽です。私が票を入れるか入れないかで劇的に世の中が変わるのか。私が票を入れることでヴォルシェビキ革命が起こって、政権与党の一党が全員皆殺しになるのなら考えないこともないが、そんなことは起こり得ない。でも、小市民はそうだと思わないのな。要するに、総務省に洗脳されているのよ。私がはっきり言ってやろうか。あなたの一票なんか何の意味もないさ。あるという根拠でもあるのか。誰に投票しようと、あなたの行動は政治的な意味など持たない。権力側のだしに使われているだけだよ。そうだと思わないのは畢竟バカだからです。愚か者だから権力側に体よく利用されているに過ぎませんね。

 民主主義とは権力奪取の過程を多少回りくどくしたに過ぎない…というのが私の自論だけど、国家体制が何であろうが、権力は権力なんだよ。その基盤が民主主義であろうが一党独裁であろうが、権力の本質は同じなのです。権力とはその言葉の通り「力」なのです。強制力と言ったほうがいいか。国民に強制力を及ぼす政治的パワーのことです。例えば、この十月に予定されている消費税の増税のことですな。これを止めようという力は本邦にありますか。ないでしょう。それを公職選挙で得ようというのは認識が甘いのよ。結局、勧進帳なんだよな。与党も野党もその役割を理解した上でくさい芝居を演じているだけだろう。可愛そうなのは国民でござい、というところだな。もう、いいよ。選挙なんかやんなくていい。金がかかるし。私は「選挙権市場」というものがあってもいいのではないかと思う。二酸化炭素のの排出権ビジネスというものがあるのなら、選挙権市場もあって然るべきだと思う。そんなものは自分で行使するようなものではなく、然るべき人の手に渡ったからこそ意味があるのだと思いますね。すなわち、選挙権なんてそこいらのせこい小市民が持っていて意味のあるものではないのです。  


Posted by 館長 at 06:10Comments(0)

2019年07月14日

奴隷話

 昨日、NHKスペシャルを見た。ヴェトナム人が日本でどういう処遇を受けているかというテーマです。考えてみれば、みんなつながっていたのですね。小泉政権当時の派遣法は日本人の奴隷化であり、今回の外国人派遣法改正(まあ、改悪だろうけどね)は比較的貧しい国の国民を奴隷化しようという意図しかありません。なぜ人手不足かと言えば、進んで奴隷になりたいやつはいないということです。が、外国人だけの特殊の事情ではない、ということを「就職氷河期」時代の皆さま方はご存知だろう。奴隷化できる人間ならば何人でも構わないということです。加えて、今は仕事として成り立っているものも、今後は縮小するか、最悪の場合、消滅する可能性があります。私がスーパーのセルフレジを毛嫌いしているのはそういう心理があるのかも知れない。でも、そっちを好む人間が増えたら、スーパーには品出し以外の人間は一掃されるでしょうね。「同じ買うのなら人間に売ってもらいたい」という考えが根底にあるのだけど、あるいは、五年後には古い考えになっているかも知れない。ほかの分野も同じですよ。AIとやらが人間を駆逐する分野はかなりあると思う。「人間にしかできないこと」に小器用に移っていけるとでも政府は本当に思っているのか? 思っていない。十年二十年後のことなんか知るもんか、とでも思っているのではないか。まあ、うそをこくのが政治家の仕事ですからね(笑)。昨今も街頭でうそをこいていますが。

 ともあれ、今後は日本人も奴隷化の洗礼を覚悟しなければならないということでしょう。先にも申し上げたように、外国人を教習生という形で奴隷化している現実がある以上、それが日本人に及ぶのは想像にかたくない。政府にとって奴隷は誰だっていいんですよ。経済原理によって人手不足になっているのがまだましです。今後、需要が縮小すれば奴隷的待遇にも甘んじなければならないということになるのではないですか。1990年代前半のように。そう言えば、1996年に「ルーツ」を見たことがある。作家アレックス・ヘイリーが自らの出自をさぐる、いわばドキュメンタリーですね。捕獲されたか自らの意志で来たか、そんなことはどうでもよろしい。経済的搾取の対象としか見られない人間は奴隷以外の何者でもないでしょう。要するに、この日本国の底辺には奴隷がいるんです。奴隷がいないと成り立たないような経済システムなんです。たぶん、未来は貴族と奴隷に二分化されると思います。そうか、だから「奴隷話」と改元したのか。  


Posted by 館長 at 09:45Comments(0)

2019年07月03日

鐚銭の繰り言

 さてと、昔…1994年か、「花の乱」という大河ドラマがありました。かなり地味だったので知らない人もいるだろう。四半世紀前だもんな。幸いユーチューブに誰かがアップしてくれたようなので、以下(↓)にURLを掲示します。全部見なくても結構です。11分当りから見て下さい。後に内大臣にのし上がる日野勝光が妹・日野富子にくだくだと銭の価値の何たるかを講釈するシーンです。室町時代だから流通通貨はたぶん明渡りの永楽通宝でしょう。外国の通貨のほうが信用があったというのが驚きであります。実際、文物でも「唐物」に価値を置くのがこの時代だったのですね。まあ、それはともかく、当時は私鋳銭というものが横行していたのですが、当然ながら永楽銭より価値は低かった。そういう鐚銭は受け取りを忌避する傾向があった。これが撰銭というやつですね。後に織田信長が「撰銭令」を出したことをご存知の方もいると思うけれど、どのような素性の銭も同等に扱え、という趣旨であります。こういうことは権力の裏づけがないとできませんね。

https://www.youtube.com/watch?v=IUs0PS-OXGs

 何を言おうとしているのかというと、人間にも真銭と鐚銭があるということです。それがわからなかったがゆえに、私は就職活動で全滅を喫しました。そうです、私は鐚銭だったのです。ほかの名のある大学と同じ資格を有していると愚かにも思い込んでしまったのです。残念なことながら…私の想像ですが、まっとうな大学の卒業者の四分の一のくらいの価値しかなかった。そりゃあ、受け取りを拒否しますわね(笑)。笑いごとじゃないけど。学歴…いや、在籍した大学の格差は表向きはないことになっている。が、現実はあるんですよ。私らのような地方の二流大学の出身者なんか人間扱いもされない。さっきも言ったように、本質何ざどうだっていいんです。真銭と鐚銭の違いとはただ名目だけです。どっちもただの金属に過ぎません。まあ、江戸時代になると金本位制なんで、金の含有量が価値に反映されるという現実もありますが、室町時代は真銭も鐚銭も銅銭という意味では同じなのであります。誰もが銅銭という現実で、学生の価値を判定するのにもっとも有効だったのは大学のブランドでしょう。まあ、所詮は鐚銭の愚痴であります(笑)。  


Posted by 館長 at 04:21Comments(0)

2019年06月22日

人生の十字路

 さて、ずいぶんと間が空きました。読む人間がいなくなります(笑)。ついては、人間には結節点というべきものがあるようであります。つまり、そこで誤った判断を下したがゆえに、不遇な方向に人生が向かい出したという。その時はそうだとは思わなかったけど、今考えてみればそうだったという判断ミスが人にはあると思う。私の場合もありました。今から四十年も前のことか。私が中学生時分のことであります。私には叔母なる者がいたのですが、夏休み…時には冬休みや春休みも日光にある別荘に呼びつけられたものです。日光に別荘なんか構えているということはお金持ちということです。まあ、何と言うか…恥ずかしいことなのですが、私は女装させられて一夏を叔母の娘として振まうことを期待されたわけであります。何となれば、不幸にも十歳で病死した本来の娘と私がうり二つだったということですね。それゆえに、叔母は外見だけはそっくりの私に何らかの執心を抱いたらしい。要するに、私にとっては一種のバイトです。最後にご祝儀をいただけるという点でね。でも、このアルバイトはそう簡単ではなかった。

 というのも、完全に女の子にならなければならなかった。その病没した一粒種は「マリちゃん」といったのだけど、そのマリちゃんになり切らなければならなかったのです。まあ、自分で言うのも何だけど、色白で童顔でなで肩な中性的な身体つきだから化けられたのです。私には侍女というか…世話係みたいな人が一人つけられたのだけど、私のために用意された衣装には圧倒された。お金持ちというのは途方もない道楽をするもんだな、と思いました。娘を失った悲哀はわかりますが、でも、やはりどうも私を対象にするのは変だという気がする。ともあれ、請け負ってしまった以上、やるしかないのであります。さりながら、ものすごく嫌なことだったという記憶もなかったですね。これが叔母を慰めることになるのなら、それでいいじゃないか…日光じゃ私を知っている人間はいないし、要するに、「旅の恥はかき捨て」というやつよ、と思っていたようです。しかし、叔母は今の言葉で言うところのコスプレ程度では満足しなかった。心も女の子になることを求めたのですね。立ちふる舞いを徹底的に叩き直されましたからね。

 さて、後日ですが、私を「養女」としてもらい受けたいという叔母からの申し出があったそうであります。「養女」という言葉の意味は明らかでしょう。つまり、性を替えてくれ、といういう意味です。もちろん、私の親は断固断った。でも、それは正しい判断だったのだろうか。今あらためて考えることですが、本来の親に甲斐性がなかったら、親を替えることも選択肢ではなかったかと思う。結局、私がその後、転落の道を選ばざるを得なかったのです。それを避けようとすれば、その時決断すべきだったのです。かく言う私がです。意味のある教育を得るには金が必要だったからです。それは実家では得られないものだった。まだ当時は教育格差など顕在化していなかったけれど、厳然としてあった。教育とは金であることを疑う者はもはやいるまい。しかし、1980年前後ではまだあいまいなところがありました。情にほだされた私の精神的な弱さに原因があったのでしょうね。判断を誤ったことは多々あれど、あれほど致命的な過ちはなかった。  


Posted by 館長 at 09:27Comments(0)

2019年05月30日

ルサンチマン

 いかにも、社会の底流にルサンチマンがたまっている感がありますね。政府が何をほざこうとこの社会は全体として貧困化しているのです。当然ながら、暴力的手段で異議申し立てをする者が出てくるのは仕方がないのではないか。一人で実行するのは無差別殺人、テロリズムと呼ばれるが、これが何百万人のレベルになったら、革命と呼ばれるのではないか。私を含めて、それくらいの貧乏人はもうすでにいる。ただし、この国の国民は牙を抜かれているので、連帯して政府を倒そうという動きはたぶんないと思う。有象無象を一方向に導くレーニンは残念ながらこの国にはいない。この国に未来があるかと言えば…私はないと思う。ゆるやかな沈滞があるだけ。首相閣下が力説するような輝かしい未来などはない。場合によっては、国際紛争によって人口が半減するという事態もあり得ると思われる。それでもいいのではないか。この国の上部構造が破壊されることは大変喜ばしいことです。畢竟、我々、貧乏人には支配階級を打倒して、やつらの生肝を食らう以外の道はないと思う。

 はっきり言って、私は日本人のエモーショナリズムが大嫌いなのである。何か起こるとこの感情が発動するが、まったく意味はない。何となれば、一月もすれば忘れられるはかない感情にしか過ぎないから。何だろうね…献花台にとやらに何かを備えて合掌すれば面目が果たせるでも思っているのだろうか。そんなものさもしい感情の表象でしかないのではないのか。まあ、これだけ言っても、誰も反論してはこないだろう。なぜか。反意はあっても反駁する言葉の持ち合わせがないからですね。代わりに私が言ってやりますが、この後も同じようなことは起こるであろう。貧富の差がルサンチマンを惹起し、それが不特定多数の殺傷という結果になることは避けられまい。その動機も言ってやろう。自分がこの世において幸福になれないのなら、他人の幸福を破壊しても構わん、という感情が働くのだと思う。ターゲットの幸福度が高ければ高いほど殺し甲斐のある目標ということです。それだけのことよ。おそらくは、遠からぬ日に話し合いではなく殺し合いでケリをつける時代が到来すると思う。貧乏人がいつまでも黙っているか、という問題ではないかな。  


Posted by 館長 at 03:40Comments(0)

2019年05月27日

日本人の言語的分断

 昔、「三語族」なる言葉があった。1980年代末のことかな。「ウッソー、ホントー、カワイイ」で済ませる言語不全な輩。いや、当時のマスコミの喧伝に過ぎず、本当にそんなうつけはいなかったのではないかと私は思うが。さりながら、今日、別な形で三語族がまた復活してきたようです。すなわち、「まじ、やべえ、あり得ねえし、うぜえ」…こういうばばっちい言葉しか知らないようなやつらが、スマートフォンなるものをひねくって、この手の汚語を発して悦に入っているような実情がありますね。あのですね、私の近くのコンビニエンスストアで、時々、大学生風の若造がスマートフォンをひねくっているのですよ。最初は「あいつはいったい何をやってるんだ?」と訝ったものですが、どうやら、そいつは無線Lanにただ乗りしているだけだということが徐々にわかってきた。まあ、これが平成(ぺーちぇー)生まれの人間の本質なのだろう。ただで利用できるものなら利用しなくては損だと考える貧しい泥棒根性…自分で使った分くらい自分で払えよ。こういうさもしい輩が出現したことは社会的恥だと思いますね。

 実際、何がスマートフォンなのだろう。あのチンケなカジェットをひねくっている光景はとてつもなく間抜けに見える。iPhoneの「i」はidiotの略ではないかと思う。件の若造はどうやらネットゲームとやらに打ち興じているものと想像される。まあ、あんなガジェットをいじくっているやつらなど大同小異。意味のある言葉など発信しているとは思えない。ネット上においては、依然として言葉に拠るしかありません。当然ながら、その人間の言語感覚が貧しければ、それと同様の貧しき輩としか結びつかないということになりますわね。今はあくまで過渡期で、あと数年後にはもう少しましなメディアが出現することを望みますが。しかし、残念ながら、言葉というものをコミュニケーションツールとする現状が覆るとは思えない。どうでもいい定型句のやり取りしかできないのであれば、それはコミュニケーションとは言えまい。要するに、本を読み文を書くという地道な努力が必要なのだけど、それを平成(ぺーちぇー)族に期待するのは無理だろうね。そんな不毛な輩は一部の知的貧困層だと思いたいですけどね。  


Posted by 館長 at 06:03Comments(0)

2019年05月19日

本について

 さて、私の荷物の九割を占めるのが本であろうかと思う。はなはだお見苦しいのだが、一部平積みにしているのである。雑然としているので、あんまりご披露したくはないのだが、私の居住状態の貧しさを反映していると思うので、あえて下記(↓)にご提示する。ともあれ、引越し屋に一番嫌がれるのが本というものですよね。私も五年前どうやって運ぼうかと難儀したものです。全部は持ってこられなかった。雑誌類は放棄のやむなきに至った。書籍なら後日手に入ることもないことはないけれど、雑誌は手放したらもう絶対に手に入らない。もっとも、書籍だってすでに絶版になったものが多いのですけどね。取捨選択する時間などないから、必要か必要でないかで分けるしかなかった。本来なら本棚を買って収容すべきなのだが、私はあくまで仮の宿りだと思っているので、あたかも定住化するようなことは拒否感があるからです。自分の意志で自分の望むところに移り住むのでなければ、私にはまだ再出発はあり得ない。今は忍従の時なのである。

 私が持っている一番高額な書籍はルネ・マグリットの画集ではないかと思う。確か、調布のパルコで買ったのではないか。概して、フランスでは本は高いのだけど、一万六千円くらいしたと記憶しています。府中市に住んでいるという地の利を生かして、新宿の紀伊国屋本店で金の許す限り本を買ってきた時代でした。残念ながら、その当時、都会と地方の情報格差は明白だった。ネットなんかない時代でしたからね。書籍の豊富さこそが私にとっては都会性だった。地方ではまず存在すら知れないような書籍があったからね。問題は、その当時買いあさった本が現在の私の文字通りお荷物化していることです。しかしまあ、学生当時はよく本を買ったし、よく読んだものですよ。今は新聞さえも読まないですからね。


  


Posted by 館長 at 03:57Comments(0)

2019年05月12日

集合住宅の名前

 イギリス英語でアパートのことを「フラット」と言いますね。どうも私は今にも倒壊しそうな「たおれ壮」という連想をするのだけど。ともあれ、私が今、住いしているアパートは「ハイツ」であります。単に高台という意味しかありませんが、残念ながら限りなく地べたに近い。実際、集合住宅の名前というのは狂い咲き状態で、実態とまったく関係がない、あるいは、家主自身が言葉の意味をわかっていない場合もあるようで。本当に手を変え品を変え、いろんな名前を考え出すもので、私は以前府中でコーポというところに住んでいたけど、これはあまり価値観はない。そのものずばり集合住宅の略ですから。しかし、レジデンスだのカーサだのメゾンだのと大層な言葉で飾り立てる向きがありますね。それがなぜかとというと、家主の己の資産を極大化したいという態度の表象であります。できれば、家賃にそれを反映したいというスケベ根性もありますね。以前、メゾン・ド・レーヴという名前を見たこともあります。不覚ながら、それがフランス語だとは思わなかったがゆえに理解が遅れた。「夢の館」はねえだろうよ…と率直に思いました。まあ、世の中には「レーヴ・ダムール」という傲慢無礼な屋号の菓子屋があるそうですからね。リスト気取りで何をほざきやがると思ったね。

 しかし、正直言って、私が棲息しているこの一角は何となく貧乏くさいのですね。というのも、公営住宅が多いから。県営住宅はまだましなのです。市営住宅に至ってはほとんど人が住める状態ではないような気がする。場所によってはバラック化している一帯もあり、まるで限界集落のような陰惨な雰囲気を呈している。まあ、要するに、市は住宅環境を整備しようという意志などまったくないということでしょう。れっきとした県庁所在地でもこれだもんな。でも、クルマが止まっているということは住んでいる人間がいるってことだ。まあ、家賃が安いからでしょうね。その一方でなかなかすごい豪邸もあるんですね。あんまり声高には言えないけれど、我が家主どのがそうです。貧乏人の血をすすって生きている金の亡者です。ふっ、言ってやった(笑)。かように、富と貧が同居している嫌な場所なのです。私を精神的に滅入らせているのもそれが一因かも知れない。  


Posted by 館長 at 08:42Comments(0)